奥多摩三山の一座である御前山は、美しく重量感のある山容に加え、春のカタクリをはじめとする豊かな山野草が季節ごとに花咲き、自然を愛する人々を引き付けています。
御前山北面には「体験の森」が開設され、山林の観察、保全、活用、などを体験的に学習するプログラムがあります。
西東京バス: 武蔵五日市駅 → 宮ヶ谷戸 西東京バス: 奥多摩駅 ← 境橋
地理院地図: 御前山
御前山の天気: 東京都檜原村 , 奥多摩駅
8月21日、奥多摩の御前山を歩いてきました。実は、1ヶ月前に右足の親指の爪を傷めました。傷はわずか数ミリなのですが、歩くときに体重の掛かる部分なので、ズキズキと痛みました。幸い1週間ほどで普通に歩けるようにはなりましたが、足、特につま先に大きな力の掛かる登山は控えていました。すると体の筋力も退化してしまいます。リハビリ登山に適した山を物色していたら、御前山の湯久保尾根が目に止まりました。
御前山の登山ルートは幾つかありますが、縦走路は別として、山麓から最も長いのが湯久保尾根をたどるルートです。水平距離が長ければ、傾斜は緩やかになるだろうから、足にも楽であろうと考えました。果たして、登山道に入ると、傾斜は緩やかでしたが、傷めた指に軽い痛みがまだ残っています。これを悪化させないようにと、この日は足をかばって遅足登山を実行し、たくさんの花や虫との出会いを楽しんできました。
武蔵五日市駅、午前7時19分発の小岩行きバスに乗りました。まだ市街地内である五日市高校前で大部分の乗客が降りると、車内はガラ空きになり、不採算路線であろうと想像されます。馬頭刈山の登山口の一つである千足の少し先、宮ヶ谷戸(みやがやと)で下車し、完全にカラになったバスを見送りました。
バス停からほんの少し戻り、左に見える赤い欄干の橋を渡ってすぐに右折します。曲がり角ごとに御前山登山口を指し示す道標があるので、迷わず進めます。里山の集落を通って突き当たりの、ヒマワリなど夏の花の咲く畑の脇から、野良道を登って行きます。振り返ると、まばらな家々を擁する山々は、濃い生命感に満ちた緑色。その上には痛快なほど深い青空。早朝から夏の色彩が強く輝いています。
野良道が山道に変わると、赤いミズヒキや水色のタマアジサイがたくさん見られるようになりました。白花のソバナ(たぶん)やシラヤマギクも咲いています。お顔の欠けた古い石仏が、手を合わせて祈ってくださっています。朱色のフシグロセンノウは、登山道のアクセント。長い花茎に小さな花を点々と並べた、ピンクのフジカンゾウ、黄色のヒメキンミズヒキは、顔を近づけるとさらにきれいに見えます。
伊勢清峯神社の鳥居の見えるところでリュックサックを下ろし、ラジオ体操第一をしました。体操をすると体の関節からポキポキと音がしますが、おそらく骨格が歪んでいたのでしょう。体が歪んだままで登山をすると、翌日に疲れと痛みが生じます。
この先、杉林の中の緩やかな道を登って行きます。心地よいそよ風の涼しさも、9時を過ぎる頃には止まり、真夏の低山に特有の汗だくの苦行に変わるかもしれません。今のうちに距離を稼いでおきたいところですが、怪我をした足の指が痛むので、超スローペースで歩いて行きます。セミたちも涼しい時間帯に婚活を急ぐのか、ミンミン、ツクツクオーシ、ジリジリジリと、すさまじいほどの混声合唱団です。
9時30分頃、登山道に大きな岩がいくつか現れました。「うとう岩」というらしいです。何か霊のようなものが住んでいそうな雰囲気があります。空気が徐々に暑くなって来ています。そよ風もいつの間にか止んでしまいました。セミたちもずっとおとなしくなりました。時おり、ヒグラシの声が林間にこだまします。
10時、ようやく湯久保への分岐に到着。道標に彫られた文字に白ペンキが入っていないので、暗くなったら読みづらそうです。ここで小休止して水を飲みます。気温はさらに上昇して、セミたちはすっかり静かになっています。こんな日は、こまめに水分を摂らなくてはなりません。万一熱中症に罹ってこの尾根で倒れても、誰かに見つけてもらえる可能性は、ほとんどなさそうです。状況を予測して、飲み物は2リットル持ってきました。
湯久保への分岐から20分ほどの場所に来たら、富士山が見えました。朝の八高線の車窓からは、雲ひとつないスッキリした姿の富士が見えたのですが、今は白い綿雲にまとわり付かれています。でもその雲は山を涼しくしてくれる雲です。御前山の上にはきれいな青空が見えますが、よく繁った夏の樹木のおかげで、太陽の直射光を免れています。
さて、眺望は期待していなかったのですが、いろいろな虫たちに会いました。とても小さな蛾が2匹、ヒラヒラヒラと飛び出しました。黒い前翅に白い帯の入った、おしゃれなヤツです。シジミ蝶のようにも見えます。不意にどこからか飛んできて、木の幹にピタリと止まったのは、ヒグラシのメスでした。木漏れ日がスポットライトのように草を照らしているところにサッと来て止まったのは、クロアゲハ。左右とも尾が壊れています。
仏岩ノ頭(1019m)は、いつの間にかその脇を通り過ぎてしまったようです。続いて湯久保山(1044m)も通り過ぎました。地図の上では湯久保山から藤倉バス停方面に下りられる道が示されています。「通行止め」と書かれた道標の立っていた分岐が湯久保山だったのかもしれません。そこから南方に道が延びていました。
エゾゼミの大きな鳴き声が聞こえてきました。クツワムシに似た声で、ガーーーと低音で鳴きます。木々を巡って音波が回折するので、どこで鳴いているのか、容易に判りません。時に草むらの中から響いてくるように聞こえたり、すぐ目の前の木で鳴いているかのように聞こえたりとか、忍者みたいです。
鞍部のような場所に道標があり、「御前山2km」と書かれていました。山頂までまだ相当の距離です。いくら私がゆっくり歩いているとはいえ、がっかりしました。これまでに歩いた距離はわずか4.8kmだということ。しかもこの先、山頂まで傾斜はきつくなるはずです。標高が上がればいくらか暑さを凌ぎやすくなるかと思っていましたが、気温の上昇の方が勝っているようです。水は頻繁に飲んでいます。速乾性のTシャツを着ているので、サラサラしていますが、汗はかき続けているはずです。
12時になって、ようやく右手から尾根が近づいてきました。大岳山、鋸山、大ダワから続く縦走路です。あの尾根を合わせれば、山頂までは一息です。「がんばれ!」と自分に言い聞かせます。
12時5分、縦走路との交差点に立ちました。自生するカタクリの保護のためのロープが登山道の左右に張られています。この季節に、カタクリの姿は見られません。地面の中で、来年の春を静かに待っているのです。真夏の登山者は、彼女たちの眠っている地面をただ見つめるばかりです。このような道を10分ほど登って、ようやく御前山の山頂に到着しました。
山頂には単独男性がいました。この日、山で出会った唯一の人です。「ここは景色がよく見えませんね」「木が繁っていますから」などと話します。この方は境橋(さかいばし)から登って来られたそうですが、また境橋に向かって下りて行かれました。また一人きりになった私は、最も涼しそうな場所のベンチに腰を下ろし、ゆっくりと昼食をいただきます。
山頂には蝶たちがたくさんいました。黄色い大きな翅がよく目立つキアゲハ。あっと言う間に通り過ぎて行ったミヤマカラスアゲハ。交尾したままの配偶者を重そうにぶら下げて飛んで行ったツマグロヒョウモン。遠慮がちに日陰をテフテフ飛んでいるスジグロシロチョウ。尾根で出会った、あの可愛らしい黒い蛾が、ここにも飛んでいました。
さて、下山ですが、私も境橋に向かいます。足の指が靴の中でつま先部にぶつからないよう、靴紐をしっかりと締め直します。下り始めてすぐのところにある避難小屋は、明るいガラス張りなのが意外でした。小屋の中から風雲雷光がよく見えることでしょう。そして天候の回復も。
さらに下って行くと、暗い斜面にぽっかり、レンゲショウマが咲いていました。「おお、あった!」と心の中で叫びます。立ち木の助けを借りて斜面を下って行き、花の前で膝をついて撮影しました。暗いので、手持ち撮影ではブレてしまいます。やむを得ずフラッシュを使いました。咲いていたのはわずか1株だけですが、このレンゲショウマに大いに心が満たされました。この花を見たくて、くそ暑い真夏の低山に登る人は少なくありません。
御前山の北面は「体験の森」になっていて、まるで公園のように、いく本もの歩行路と交差します。交差点には、どの道が登山道なのかはっきりと示されています。「湧水の広場」の近くにある水場を見に行くと、今にも枯れそうな細い水が、水道管からちょろちょろと垂れ落ちていました。
「カラマツの広場」で休憩しようと行って見たら、ベンチは全部腐っていました。でもしっかりした東屋が建っていたので、その屋根の下で腰を下ろしました。チョコレートをかじりながら、地図を広げます。普通の私は下りが得意なのですが、きょうはおよそ普段の2倍近くの時間がかかっています。このとき、13時50分でしたが、境橋を16時29分に通るバスに乗ることにしました。
栃寄大滝に近づくと、本当にトチの木が増えてきました。ひょろひょろした若木もあれば、素晴しい大木もあります。樹高20mを越すかと思われる、みごとなカツラの大木もありました。家の近くの公園などで見るトチやカツラとは比較にならない、巨大な胴回り。そこには荒々しい山の自然が刻んだ、風雪の痕跡が見られます。見上げると、真っ青な空に向かって、瑞々しい生命力が無数の枝を駆け上がる、畏怖にも似た感覚。逆光で透かし見る大きな緑の葉は、青年の肺のように力強く呼吸していそう。やはり山はいいなあ、と改めて実感します。
「体験の森」の石碑から沢に降り、顔と帽子を洗いました。唇を舐めて、塩気がなくなるまで洗います。ここで大いにリフレッシュしました。ここは、下から登って来ると林道の終点です。その林道の右脇から入った沢沿いの道は気持ちよく歩けました。難しそうな箇所や、沢を横断する箇所には、真新しい木の梯子や橋が架けられています。バスの時刻に合わせ、ゆっくりと山水の霊気を楽しみながら下って行きました。
登山道が終わりに近づいた頃、草が生い茂ってすっかり道を覆っていました。こんなところでマムシでも踏むといけないので、やや遠回りになりますが、林道に移動します。舗装された林道からは太陽の照り返しがきつく、距離は短いものの、うんざりしました。下山の最後はのどかな里山風景になるのが好きなのですが、それなら檜原村に下りるのがよいのです。それでも林道わきに水場があり、冷たい水が出ていたので、もう一度顔と帽子を洗うことができました。最後は少しさわやかな気分になって境橋に向かいます。
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