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古い登山手帖

登山手帖の表紙 手帖

去る6月、古い物をしまっておいた段ボール箱を整理していたら、右の写真の「登山手帖」を見つけました。38年間も箱の中で眠っていた、私の若き日の山行記録です。

表紙は手垢で汚れている上に、湿気を含んだせいか、一部ボロになっています。でも中を開いたら、ボールペンの文字も鮮明で、インクのボテも書いた時のままです。山頂からの眺望を描いたスケッチもあります。

まるでタイムカプセルを開けるような気持ちでページをめくって行くと、一つ一つの山に行った当時の記憶が、ありありとよみがえって来ます。もうすっかり思い出すこともなくなっていたことも、本当は忘れきっていなかったことが分ります。この手帖の記録は、私の分身だったのです。

変わっていない私と、変わってきた私とを、この小さな手帖が教えてくれます。体の記憶は薄れてしまっても、感情の記憶は昨日の出来事のように初々しく今も胸に再現されます。これから先も、きっとそうであり続けることでしょう。仮にいつか体が老い過ぎて、山に登れなくなるようなことがあったとしても。

写真:山と渓谷、昭和46年7月号付録の「登山手帖」表紙


登山手帖 p.30-31
1971年7月から翌年7月までに、10回の山行記録がある。

緑の木の葉ライン

丹沢主脈

登山手帖 p.50-51
登山手帖 p.52-53
丹沢主脈、昭和46年10月16日(土)晴れ、日帰り、単独行

手帖

当時、大学四年生だった私は、駒沢(東京都世田谷区)に間借りしていた。地下鉄新玉川線はまだ工事中だった。早朝、玉電代替バスの一番に乗って、渋谷に向かった。渋谷、新宿と経由し、小田急線で渋沢に向かうのだが、この少々遠回りのコースでは、渋沢駅発大倉行きの始発バスに間に合わなかった。このことが丹沢主脈の長いコース歩きにとって、ハンディとなる。

塔ノ岳を過ぎると、人に出会わなくなった。鹿たちも登山道に立っていた。私は規則的に短い休憩を取りつつ、軽快に歩き続けた。

蛭ヶ岳までは,すべて順調に進んだ。その後、姫次から10分ほど歩いたところで左に下る道を分け、さらに焼山方面へ10分歩き、八丁坂ノ頭から東野方面へ下ろうとした。ところが、「八丁坂」と記した道標は確認したものの、いつまで歩いても分岐が現れない。道を間違えたと思い、一つ前の分岐点まで戻って下り道に入る。だがこの道は涸れ沢にぶつかった所で、途切れてしまった。登山道ではなかったらしい。

知らない谷に向かって道なき道を下るのは無謀である。私はこの教訓に反し、下山を続行することにした。まだ空は明るい。地図と方位磁針とを持ってのオリエンテーリングに、いささか過剰な自信を持っていた私は、何もためらわなかった。足元をしっかり見て進む。急斜面のところどころに鹿の糞が見られた。幸い、約1時間の藪こぎの末に、正しい登山道を見つけた。しかし、この藪こぎによるタイムロスで、東野バス停まで走る羽目になった。

当時、東野から藤野駅行きの直通バスがあった。これの最終便に乗るために、残った体力を使い切って、ギリギリセーフとなったのだった。

緑の木の葉ライン

両神山

登山手帖 p.56-57
登山手帖 p.58-59
奥秩父、両神山、昭和46年11月13日(土)晴れのち曇り--14日(日)曇り、1泊2日、単独行

手帖

駒沢から奥秩父へのアクセスは不便だった。午前6時に駒沢を出発し、渋谷まで東急バス、池袋まで国電山手線、寄居まで東武東上線、三峰口まで秩父鉄道、さらにバスで小鹿野役場に着いた時は正午であった。納宮行きのバスを2時間待つ間、小鹿野神社に参拝。納宮到着は14時45分、ようやく歩き始めることになる。私の他に登山者は一人だけだった。

その晩は、日向大谷社務所に泊めていただいた。もう一人の登山者は食事を頼んだが、私の方は素泊まりで600円だった。山小屋のムードはないが、イザナギ、イザナミを祀った、清浄な空気に満ちた神域での宿泊は、雑念も生じず、ぐっすりと眠れた記憶がある。

翌日は高曇り、南北アルプスの一部、富士山、谷川連峰、武尊山、筑波山などを広く展望できた。当時の私は自分のカメラを持っておらず、写真は一葉も残してないのが残念である。

帰路は国道299号を長々と歩くはずだったが、幸いにも通りかかった回送中の観光バスに拾われて、坂本から秩父駅まで楽々と乗ってきた(感謝)。秩父駅では、お花畑乗換えの西武線連絡切符を売ってくれなかったが、この際、秩父鉄道を終点の熊谷まで乗ってみようという気になった。こうして、やや時間とお金は余計にかかったものの、心残りのない旅を完了することができた。

緑の木の葉ライン

三頭山

登山手帖 p.62-63
登山手帖 p.64-65
奥多摩、三頭山、昭和46年11月21日(土)晴れ--22日(日)晴れ、1泊2日、単独行

手帖

「何に引かれるのか、漠然としたまま出かけた単独行。サブザックの上にシュラフをのせて、キスリングの仰々しさをさける。」と書かれている。

その朝は、午前9時半にゆっくりと駒沢を発つ。武蔵五日市駅前で、そばをすする。数馬から晩秋の静かで落ち着いた山道を楽しみ、山頂(中峰)に立って、美しい日の入りを見ながら、残り少なくなった学生生活を惜しんだ。社会人となれば、山行きも制約を受けることだろうと。雁ヶ腹摺山の右手に沈む太陽、くっきりしたシルエットの富士、空の二日月、薄暮の大菩薩連嶺、奥秩父山塊の展望を一人でゆっくりと楽しんだ。

その夜は避難小屋に泊まった。夜半に風が強くなり、入口の戸が倒れ、冷たい風が吹き込んできた。このときの朝の待ち遠しさが登山手帖に書かれているが、体の記憶はすでに消えている。

翌朝再び中峰に登り、深緑色の奥多摩湖にさよならを言う。下山路は、大沢山、槙寄山を越え、西原峠に向かう。

「西原峠から暗い樹林帯を下って工事現場に出るよりも、明るい斜面を未知の村に下りる方に引かれた。」と書いてある。原⇔上野原間には1日5往復のバスがあった。燦々と陽射しを浴びる郷原バス停。のどかな畑の縁に積まれた低い石垣に寄りかかり、上野原駅行きのバスを待つ。その静かで暖かい時間は、何故か、かけがえなく尊いもののように思われた。記録によれば、それはわずか20分間だったが、この時間を思い出すたび、私の心に純粋な幸福の味がよみがえる。

緑の木の葉ライン

仙丈ヶ岳山頂でのスケッチ

赤石山脈スケッチ
赤石山脈スケッチ

手帖

昭和46年7月30日から8月2日にかけ、親友と二人で南アルプスの甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に登った。そのとき、登山手帖にボールペンで描いたスケッチである。

甲斐駒ヶ岳スケッチ

友人はハーフ判のカメラを持って行き、私の分も撮影してくれた。私はカメラを持っておらず、登山手帖にスケッチをして、下山後にスケッチブックに描き移して、簡単な水彩を施して楽しんだものである。

仙丈ヶ岳は、多種の花で彩られていた。しかし、クロユリは、すでに一株ごとに会符(えふ)が付けられていた。2010年の夏、39年ぶりに登った仙丈ヶ岳で見たのは、鹿の行動を調査するために、山頂付近にまで設置された監視カメラである。登山コースでクロユリを見られなかったのが寂しい。

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